アート談義vol.2『障害とアート』
障害者とアート作品の距離感
この時の食事会でもう一つ、深い議論になったのが「障害者アート」についてです。
私たちの仕事はアートと障害福祉をつなげる仕事。食事をしたメンバーの中には、自身も障害を持ちながらアート活動をしている方もいます。
その人は精神障害で季節の変化で気分が落ちやすいそう。寒くなる時期は特に調子が悪そうで、年によってはメンタルが落ちすぎて数ヶ月姿を見かけないこともあるのですが、今年は接点も増え、元気そうにしている様子をよく見かけるので安心するばかりです。
2つ目の議題はそんなメンバーからの質問でした。
「作品を発表する上で障害があることを公表すべきか否か」
その人自身は「人に作品を見てもらう上で避けては通れないと感じている」とのことでした。
その反面「障害がある人なんだな」と、見る側にフィルターがかかってしまうから難しい、とも。
なかなか当事者から聞けるお話ではないので非常に興味深かったです。
障害者芸術とアール・ブリュット
最近はアール・ブリュットのような、特段アートの勉強をしていない人の「ありのままの芸術」という視点から、障害のある方の斬新な作品にも注目が集まることが増えています。
ほとんどの作品が「作品」のていを成している一方で、あれもこれもアール・ブリュットと結びつけた結果、「これが本当に芸術なの?」と疑問を投げかけてくるような作品…作品?も多く見かけます。
私もアール・ブリュットに関心を持った学生時代、自己陶酔で一人芝居をするパフォーマンスや、精神疾患自分を抑えられず毟った髪の毛を「これが芸術です!」と見せられた時には首を傾げずにはいられませんでした。
もちろん、作品になるよう心掛けて取り組む団体も多いですが、若干なり「なんでもありの障害者芸術」になりつつある場所で、自分なりのアイデンティティをもって制作ができる人が「障害者のアート」として括られてしまうのも勿体無い気もします。
また、学校の支援学級や放課後等デイサービス(障害のあるこどもを対象とした学童保育のようなもの)を利用する子供の中には療育手帳や障害者手帳を持たない「実は障害者に括られない子」もいるという事実があります。
医師や専門家による判断で「通常級に通うのは難しい」と判断されれば利用ができるため、そういった療育手帳(IQが規定値に満たない、知的障害の判定を証明する手帳)や障害者手帳を持っていない、障害者と健常者のグレーゾーンの人たちもいるのです。
そういった人たちの作品は障害者芸術に含まれるのか、別に障害者としてアピールする必要はあるのか、と専門家や当事者たちの意見交換が盛んに行われていました。
障害という『個性』
少し脱線しますが、「作品を発表する上で障害があることを公表すべきか否か」という議論に対する私の意見を言う前に、私にとっての「障害」の解釈についてすこしお話しします。
というのも生まれ持った、あるいは後天的に不自由になったり、社会での生きにくさを感じてから発覚したりする「障害」は、社会で生きていく上で何かに不便や障壁を感じる特性であり、障害のある人が今後一生付き合っていかないといかない問題のため、非常にデリケートな話題です。
はたして健常者である私が分かったような顔をして語っても良いのか…という思いもあるのですが、アート専門とはいえ障害福祉に関わる仕事をしているので、そこまで的外れではないことを願って、障害福祉と関わる中で獲得した私の考え方を主張します。
「障害は個性である」
よくこれを主張して健常者の人から「そんな軽く扱って良いモンじゃないんだよ!」と言われるのですが、幸いなことに障害のある当事者の方から怒られたことはありません。
「障害『で』ある」から障害者なのではなく、「障害『が』ある」から障害者。
荷物が多い分、手伝いが必要な時に持つのを支えられれば良いと考えているので、あまり過敏に自分たちとは何もかも違うものだという捉え方は相応しくないと思っています。
ですので私はだいぶフランクに「障害」を扱ってる節があります。「こんな考え方もあるのか」と思っていただけたら何よりです。
アイデンティティは「武器」になる
本題に戻りまして、「作品を発表する上で障害があることを公表すべきか否か」という内容に対し、私はこう考えています。
アール・ブリュットや障害者アートというくくりでなく、あくまで1人の作家にフォーカスを当てた場合の考え方として、
「障害という個性は、ひとつの武器(アイデンティティ)として活用していい」
活用するべきではなく、活用していいというのがポイントです。
私から見れば「作品に厚みが生まれるバックボーンをもっている」と思いますが、当事者が「自分の個性だから公にしても良い」と感じるか「障害者というフィルターで見て欲しくない」と感じるか、この違いが最も大切にすべきポイントだと思います。
ですので当事者がどう思うかが何より優先されているという前提にはなりますが、アートの世界において、強烈なバックボーンは作品に深みを与えます。
例えば、同じような絵が二つあったとき、一方は「趣味で描きました」という作品。
もう一方は「自身の障害や苦難を乗り越えて描きました」というエピソードを持つ作品。
後者のストーリーが、作品にさらなる輝きと価値を付加するのは、ある種必然です。
美術の教科書でパブロ=ピカソのゲルニカを見て「上手じゃないし変な絵だな」と感じるか、「実はピカソは14才の時に神童と呼ばれるくらいとんでもない絵を描く人で、実は絵がすごく上手い。なのにわざと下手に描いている」「実際にあった無差別爆撃を題材にしたゲルニカという絵では、あえて人物の特徴(性別・服装・国籍など)の情報を削ぎ落とすことで、より戦争の悲惨さを強烈に伝える工夫が…」
どうでしょう。芸術作品はもちろんそのまま目で見て楽しむことも大切とは思いますが、それが制作された背景や作者のバックボーンを知ると、もっと一段と魅力的な作品に見えてきませんか?
私はアーティストになるなら、このバックボーンの力の偉大さを活用しない手はないと思うのです。「自分にはこんな障害がある」。アートにはそれをコンプレックスではなくあなたを一段と輝かせる武器にする力があります。
もちろん、障害者を売りに作品を発表することで、「障害者アート」という枠組みに囚われすぎてしまう危うさもあります。 障害者アートというレールの上だけを行くようであれば どうしても相手の評価基準に「 障害があるから」というのがついて回ります。
一人の作家としてやっていけるほどの伸び代があるのに、 障害ありきで「障害があるのにこんなにかけてすごい。 」と常に褒められる環境で成長を止めてしまうことももったいない人もいるなという風に感じるのです。塩梅が難しいものです。
障害者アートの枠を超え、個人として戦っていくのであれば、障害があるという個性はアイデンティティとしてあなたの助けになるかもしれません。
そのステージを飛び出し、障害すらも「自分を構成する一つのエピソード」として昇華できれば、それは唯一無二の表現になります。
あなたを評価する軸が一つでないというのは評価を得る上で強みになります。
逃げ道にするのではなく、自分を強くするための「個性」として捉える。捉え方次第で何でも強みに変えられるのが、アートという分野の特権ではないでしょうか。
ここまではあくまで一人の作家としてやっていきたい人にとっての「障害者」というものの考え方です。
アール・ブリュットのような障害ありきのアートでは、また考え方が変わってくると思います。 ただ一つ 共通して言えることは アートには障害やハードルがある状況を個性として捉えられる力がある ということです。




